三人の女性

今日は全く個人的な話をしようと思う。

自分を偽り続けることで誰かを幸せに出来る状況を考えよう。この状況では自分の心理的な負担が大きい。故に、その「誰か」を幸せにすることに大きな価値を見出せないかもしれない。

次に自分に正直であることで、誰かを不幸せにしてしまう状況を考えよう。当然、この状況では自分の心理的負担は小さい。最も正しい選択のようにも見える。だが、それ故に「誰か」を傷付けてしまうとすれば、結果として心理的負担は大きなものとなり得る。

つまり、これら二つの状況が重なり合うことによってジレンマが極大化する。しかし、今回はあくまで個人的な話だ。個人の経験でお話させて頂こう。過去、私の目の前には3人の女性が存在したのだ。


とある女性と何かの偶然で親しくなった。私はそれほど魅力を感じてはいなかったが、彼女が一人目の女性だ。付き合う前からある程度分かってはいたが、その女性は精神が未熟で、他人に対して理想化と軽蔑を行き来するような態度しか取れない人物だった。それでいて愛情表現は拙く、控えめなものだった。
その幼い部分はときに魅力的にも映ったが、大人し過ぎる性格は、正直付き合っていても張り合いがなかった。程なく、私は彼女が疎ましく思うようになる。

そこに二人目の女性が現れる。彼女は裏表なく他者と交われる快活な人物で、一人目の女性とは正反対な性格であった。私は彼女に惹かれていく自分を否定し切れなかった。そして散々悩んだあげく、私は自分に正直になることを選択した。一人目の女性を見限ったのだ。

二人目の女性との交際は首尾よく始まった。その関係はしばらくの間安定して推移した。だが関係が続くうちに、むしろ彼女の方が二人の関係に固執するようになる。そして私にはそれが負担に感じるようになった(心理学的には、「女性の愛情は交際期間を経るに従って深くなる」というデータがある)。

四六時中、交際相手に想われ続ける関係など、恋愛経験のない夢見る少年少女でもなければ、いかに鬱陶しいものかお分かりになるだろう。素っ気ない態度は物悲しいが、あまりに執着されるのは不愉快になる。巷には過剰なほど愛を賞賛した物語で溢れかえっているが、当時の私にはそれが悪い冗談のようにしか聞こえなかった。


実は一人目の女性が現れる前から、私が想いを寄せる女性がいた。それが三人目の女性である。三人目の女性は全く魅力的な人物だった。実のところ、私は他の女性と付き合っているときでも、常に彼女のことを考えていた。
だが、私は二人目の女性を見限る気にはなれなかった。彼女の強過ぎる思い入れに不快感を覚えていたものの、一人目の女性に与えたような屈辱を、彼女に経験させたくはなかったのだ(一人目の女性はあれから私を避けるようになった)。何はともあれ、私は二人目の女性を大切にしたかったのだ。

自分に正直になれない不愉快な日々。だが不幸な「幸運」が舞い降りたことにより、その毎日が唐突に終わりを迎えた。三人目の女性と親しくなる機会に恵まれたのだ。私は再び決心した、自分に正直になろうと。そうして二人目の女性との関係を曖昧にやり過ごしながら、自分が最も好意を寄せる人物との関係に没入していった。
今思えば当たり前のことだが、これは最悪の選択である。当然の結果として二人目の女性との関係は次第に冷めていった。だが、不幸にも三人目の女性は私に対して強い感情を抱くことはついぞなかったのである。その魅力ゆえに幾らでも代わりがいたのか、あるいはそういう性格なのか、三人目の女性は関係を維持することに無頓着だった。やはり今までの女性たちとは正反対である。彼女にとって二人の関係は、いつでもクーリングオフが利く「試用期間」のようなものだったのかもしれない。まぁ、今となってはどうでも良いことだ。


結局、私は自分自身を含む全ての登場人物が深く傷つくシナリオを選択してしまったのだ。いや、三人目の女性が傷付いたとは決して思えないから、最も愛する女性を傷付けなかったということだけでも「救い」とでも言えるだろうか。そんな無神経な冗談を笑えるほど、私は強くない。

とにかく、こうして私の前から、三人の女性が消えたのだ。


さて、では当時の私にとって次善の策は何であり得ただろうか。好意を感じていない女性と無理に関係を続けることだっただろうか。それなりに愛していた女性と不愉快な関係を維持することだっただろうか。それとも、他の女性を傷付けても最も愛する女性と浅薄な関係を楽しむことだっただろうか。

今の私には明確な答えがある。当時の自分が相談したとすれば、私はこう答えただろう、「二人目の女性を愛し尽くせ」と。

自分と相手の犠牲がちょうど釣り合うくらいの関係が、普通の人間同士にとっては最も適している、と私は考える。少し疎ましいくらいの関係性。つまり、自分にとっても相手にとっても何かが欠けていて、それ故に欠けたものを埋め合わせようという「意欲」が湧く程度の失望感。今の私には、それが最も安定した関係だと信じている。

今の私には分かる。幸せとは訪ね歩くものでも、掴み取るものでもない。即ち、育て上げるものなのだと。
そして、そのためにはある程度の犠牲と忍耐が不可欠なのだ。


三人の女性はもういない。だが、彼女たちがいなければ、今の私もいなかっただろう。
美辞麗句で飾り立てたことを言うつもりはない。ただ、私には彼女たちとの思い出が愛しくてならないのだ。