優しい社会と厳しい社会

優しい社会は社会的コストが高い。厳しい社会は社会的コストが低い。

一方で、厳しい社会は低いコストの代償として断続的に小規模なコストを払い続ける必要がある。まれに大規模なコストを払う必要も出てくるだろう。

しかし、全体にかかる社会的コストを合計すれば、厳しい社会の方が優しい社会よりもコストが低い。だから、私たちは厳しい社会を選択している。だとすれば、その突発的で大規模なコストは、低い社会的コストを享受する私たち自身の選択の結果であることが分かる。

こうして私たちは、断続的に小規模あるいは突発的に大規模なコストを見ないふりをして、社会に事実上のタダ乗りしている。確かに無賃乗車をうまく続けられるうちは気が楽だろう。

だが、確率論的に言って社会を構成する一部の人々が生贄とならざるを得ない。私たちは厳しい社会を選択しているのであり、低コストで社会を運営していくためには生贄がどうしても必要になるからだ。

たとえ、あなたが社会の生贄になったとしても誰もあなたに同情してくれる人などいない。むしろ人々はあなたを軽蔑し、人格を否定し、社会から追い出そうとするだろう。あなたは生贄になることを拒否し、社会に牙を剥くかもしれない。しかし、生贄になることが決定した時点で、あなたが人間狩りから逃げ出す手段など残されていないのかもしれない。唯一、自ら終わりにすることを除いては。

あなたが生贄になったとき、私はあなたを救い出すべきだろうか。私は救い出してあげたい。しかし、力が及ばないかもしれない。あなたが生贄になったことに気付かないかもしれない。

厳しい社会において個人の力はあまりに弱い。孤独では生きてはいけない。厳しい社会である以上、私たちは相互に優しさを共有していかなければ生き残れないだろう。この社会において他者に対する優しさを拒否することは、自ら命を絶つ行為に等しい。

だから、あなたが生贄に選ばれたのならば、私は同情するだろう。たとえ、あなたが大きな許されざる罪を犯したとしても、わたしは罪を犯すに至った背景に思いを馳せ、やり切れない怒りと後悔と哀しみを共有すると誓う。あなたが罪を清算するその直前まで、私はあなたを忘れない

私には生贄を解放する力はない。だから、私は忘れない。
怒りと後悔と哀しみを共有する。そう誓おう。