戸塚ヨットスクール校長による「教育改革に関する意見」について(その1)

http://totsuka-yacht.com/kaikaku.htm

上に挙げたリンクに戸塚宏氏(戸塚ヨットスクール校長)による教育改革の意見書があります。戸塚氏の知性が垣間見えるような知的な刺激に富んだ名文なので、徹底的に批判してみたいと思います。

前文に対する批判

日本の教育崩壊は歴史始まって以来のことであり

何をもって教育が崩壊したかが書かれていません。この文章は、読者個人の「教育崩壊」のイメージに訴えかけているのです。私たちはメディアを通じて「教育崩壊」が進行しているという感覚を植え付けられていますから、このようなレトリックを用いられると容易に個人的な「教育崩壊」のイメージを以降の文章に結び付けてしまいます。

そもそも「歴史始まって以来」という書き方も曖昧です。日本の歴史は判明している範囲で2世紀ごろから始まっていますが、公教育の仕組みが始まったのは明治以降です。江戸時代の寺子屋は限りなく私塾に近い性格のものであり、公教育ではありません。また、戦前では一部の子どもが労働力として扱われ、まとも教育が受けられなかった場合もありました。また余談になりますが、戦前のエリート養成所(陸軍士官学校及び海軍兵学校)の卒業生があまり役に立たなかったのは良く知られています。要するに、教育制度自体が軌道に乗ったのは実に戦後になってからでしょう。

その戦後の公教育ですら必ずしも順風満帆ではありませんでした。60-70年代には学生による政治運動(学生運動)が激化し、大学に限らず一部の高校でも授業が行えない事態となっていました。これは教育崩壊と言えるでしょう。戸塚氏は学生運動が激化する前に高校や大学を卒業しているようですので、現状をご存じなかったのかもしれません。また、80年代は「理由なき反抗」時代です。校内暴力が常態化する教育崩壊状態でした。

しかも、こういった「ゆとり教育」以前に学んだ大人たちが容易に「円周率は3」という稚拙な喧伝に欺かれています。なるほど、戸塚氏が教育を受けていた頃からずっと日本の教育は崩壊していたわけですね。

世界にもその例を見ない、日本独特の現象です

世界(アメリカやフランスなど)の方が余程大変なことになっています。PISAの結果でも左記の二ヶ国は先進国中最低水準*1でした。中進国のスロベニア以下ですよ。またG7中最低のイタリアでは未だに文盲な国民がいるほどで、教育制度自体が崩壊寸前です。

つまり教育崩壊どころか、世界と比較すればするほど日本の公教育の質の高さが際立ちます。確かに中華系の小国・地域(台湾やシンガポールなど)や北欧諸国と比較すれば劣りますが、人口の多さを考慮すれば日本は十分に健闘しています。何故それほど日本を卑下したがるのか理解できません。「謙遜」でしょうか。それとも日本が嫌いなのでしょうか。

また一般常識として、日本を除く先進国における若者の間では麻薬が日常的に使用され、社会問題となっています。学校で比較的簡単に入手できるからです。あのアメリカ大統領候補のオバマ氏やイギリスの次期首相と目されている保守党キャメロン氏ですら、若い頃に麻薬に手を出したことを認めています*2,*3。日本でも麻薬が蔓延しつつあることは認めざるを得ませんが、他国ほど酷い状態だとは決して言えません。その意味で日本の学校は比較的安全ですね。

従って教育改革に関する理論はまだできあがっていません。

教育改革に対する発言を行っている人は多数存在しています。例えば、民間人初の公立中学校長となった藤原和博氏は独自の理論で一定の成功*4を収めています。100マス計算理論(陰山メソッド)の陰山英男氏も著名ですね。

また「従って」という接続詞は文章の前後に因果関係があることを示すものですが、前文との関連性はありません。戸塚氏は教育者なのですから、国語を正しく使えなければなりません。あるいは情緒を旨とした(=論理性を欠いた)日本文化を表現したということでしょうか。しかし、江戸時代における数学の学問水準は世界でも高い方*5でしたし、必ずしも論理性を欠いたものが「日本的」とは言えないような気がしますが…。

理論らしきものを持っているのは、わずかに教育現場において成功している者のみです

この文は正しいです。しかし、正しいのには理由があります。何故なら、理論を提唱していても教育現場にいなければ「成功」するか、つまり理論が正しいかどうか確認することはできないからです。そして独自の理論を提唱しながら同時に教育現場で働く教師は圧倒的少数派です。また、自論が失敗した場合、その教師がわざわざ失敗事例を公表するとも考えられません。

ですから、独自の理論を持って働く教師のうち、成功事例を公表できるのは極僅かいなくて当たり前のことなのです。しかも、何をもって「成功」と言えるのかが書かれておらず、またもやイメージに訴えかけています。なるほど情緒の国ですね。

今は現場の人間の声を聴く時期であり、学者や文化人の出る幕ではありません

その学者や文化人が現場の人々の声をまとめ、問題点を整理し、世に公表しています。教育の階層化問題に取り組む苅谷剛彦氏やイジメ問題に取り組む内藤朝雄氏などが代表に挙げられます。むしろ特定の現場教師の意見だけを鵜呑みにすれば、汎用性のない独善的な理論を形成してしまう恐れがあります。

さらには、拙速を避け、じっくりと実践で確認しながら行うことが必要です

拙速を避けるべきという判断には賛成します。

とはいえ、実践しながら教育理論の検証を行うのは教育者としてあるべき態度ではありません。何故なら、失敗した場合に子どもが犠牲者となってしまうからです。子ども達を研究のモルモットにするべきではありません。少なくとも教育理論の検証は、ヨットスクールという私塾で受講料を取って行うようなことではありません。

戸塚ヨットスクールでは、今、広島県でその確認の場を与えられつつあります

戸塚ヨットスクールの校長、戸塚宏氏は一般的な教育機関で働いた経験がなく、また教育学部卒でもありません。現場の人間どころか、教育に関しては素人であり、いわゆる文化人の範疇を出ません。確かに文化人の出る幕ではありませんね。ご自身の発言通り、教育は現場の教師たちに委ねるべきでしょう。

1年後にははっきりと結論が出るでしょう

何をもって「成功」であるか定義されていないので、何年経っても検証のしようがありません。同様に何をもって「失敗」であるかも書かれていないので何年経っても失敗していないと言い張ることは可能です。戸塚氏は一体何をしたいのでしょうか。

(続く)

戸塚ヨットスクール校長による「教育改革に関する意見」について(その2)

http://totsuka-yacht.com/kaikaku.htm

「1.教育崩壊の原因」に対する批判

「(1)教育の定義、目的」について

人間の精神は、知・情・意の3つからなっています

一体どのような学術的な根拠によってこのように主張されているのか非常に興味深いです。確かに辞書には「知情意」という表現が掲載されていますが、Googleで「知情意」を検索しても学術的な根拠は見付かりませんでした。

とはいえ、似たようなものは存在します。人間の成長を「意思→感情→思考」という過程で説明し、これを教育理念としたシュタイナー教育というドイツ生まれの教育理論です。ところで、この理論を提唱したルドルフ・シュタイナーはキリスト系神秘主義者です(後述するように戸塚氏はキリスト教的概念の受容を拒否しています)。シュタイナーは、日本人やユダヤ人を退廃種と位置づけ、存在する価値がないとまで主張する人種差別主義者でした。属人論法に過ぎないかもしれませんが、こういった発言をした人物の教育理論を積極的に肯定する理由はありません。

そもそも、知情意という言葉は「ちじょうい」と音読みするのですから、日本古来の和語ではありえません。中国由来か、あるいは西洋的な感覚の言葉といって良いでしょう。そもそもこのように「こころ」を成分に分解して捉えるという考え方が非常に西洋的です。実際、知・情・意は、それぞれ英語の intellect, emotion, volition に相当します。直訳できるくらい西洋的な言葉なんですね。むしろ欧文脈の言葉と考えるのが自然でしょう。なるほど、戸塚氏は西洋文明に傾倒しているようです。

一応、日本には「一霊四魂」という心を成分として捉える考え方もありますが、これは本田親徳という幕末期のオカルト宗教家の思いつきに過ぎません。しかも言葉遣いは神道風ですが、概念自体は儒教的です。武士道が儒教の言葉でキリスト教的価値観を賛美していた*1のに似ていますね。

少なくとも「知情意」を日本の伝統的な「こころ」の捉え方と考えるのは若干無理があるような気がします。戸塚氏は日本人をこれ以上に西洋化しようとしているのでしょうか。意外ですね。

教育の目的は、その精神を、強く(情)・正しく(知)・安定した(意)ものにすること

違います。教育は、個々人の幸福や成長のためではなく、社会(ひいては国家)に役の立つ人材を効率良く安定して輩出するための制度です。だからこそ国家が教育に税金を投入するのです。単に個々人の健全な生活を支援したいだけならば、「教育崩壊」というように大上段に構える必要はありません。無償で教育ボランティアを行えば良いのです。

また「強く(情)・正しく(知)・安定した(意)もの」という表現は、個々の漢字の意味からは類推できませんから、戸塚氏の独自解釈に過ぎないようです。戸塚氏もおっしゃっている通り、教育においては独自解釈を検証もなく断言するという「拙速」は避けるべきでしょう。

即ち「理性(=社会性)を創る」ということにほかなりません。

理性は社会性のことではありません。また理性は育まれる能力ではなく、生来的に備わっているものとされています。「社会性」と言いたければ初めからそう記述するべきでしょう。ちなみに社会性の核となる「心の理論」も先天的な脳機能と言われています。アスペルガー症候群といった発達障害は、この脳機能に障害がある人々であることが医学的に証明されています。残念ながら後天的に治療する方法はありません。

さらに、理性の具現化たる[強く・正しく・安定した行動]を行うことのできる肉体を創らねばなりません。

唐突に肉体という概念を持ってくる根拠が不明瞭です。繰り返しますが「理性」という概念は生来的なものであり、肉体的な条件が整って初めて機能するようなものではありません。しかし以下の一節にある通り、この「理性(社会性)を肉体の鍛錬によって育て上げる」という考えが戸塚氏の教育理念のようです。

精神と肉体の「トレーニング」――これが教育です。

いえ、それは教育理論(教育手段の一つ)であり、教育そのものではありません。そもそも精神と肉体を分けるという考え方(心身二元論)は極めて西洋的な概念です。やはり日本人を西洋人化しようとしているのでしょうか。明治時代に鹿鳴館を作った井上馨のような方ですね。

戸塚氏の主張する教育の目的がこれではっきりしました。つまり、子ども達の肉体を鍛え上げることで「理性(社会性)」を発揮できるようにするということです。健全な身体には健全な精神が宿る*2ということでしょうか。

「(2)戦後人権思想による「教育の目的」の喪失、教育崩壊の原因」について

世界人権宣言の第1条には「人は生まれながらにして…理性と良心を付与されており…」とあります。戦後の人権思想は、この言葉を無批判に「正しいもの」として受け入れてきました。しかし、ここでいう「理性を付与したもの」は神(=エホバ)であって、キリスト教的な理性天動説にほかなりません。

何度でも繰り返しますが、理性という概念は「先天的に人間が獲得している能力」という定義があります。もしこの定義が気に食わないのであれば、別の概念で説明すれば良いことです。執拗に理性が生来的に獲得できるものではないと批判しても意味はありません。

もっとも、ドイツの大哲学者カントは一連の著作で従来の理性観を批判し、理性は先天的に人間が持つ良心(道徳律)の顕れに過ぎないと看破しました。とはいえ、先天的な能力から導き出されるという点で理性はやはり先天的なものであり、教育によって育まれるものではありません。

更に戸塚氏は、唐突に「キリスト教的な理性天動説」という理解しにくいレトリックを使って「理性が先天的な能力と規定しているのはキリスト教なのだ」と主張しています。

この「理性天動説」とは、かつてキリスト教*3が誤りである天動説を頑なに支持していた事実*4に「理性が先天的である」という考え方を重ね合わせた表現だと考えられます。本来ならば関連しない二者を結び付けることによって読者の誤解を誘導し、納得させる手法です。大抵の日本人はキリスト教徒ではないので、こういった異教批判的な言い回しには思わず欺かれてしまいます。謂うなれば、東とは「太陽が昇る方角」のことにも関わらず、「太陽が東から昇るのはキリスト教的概念である」と主張するようなものです。仕組みが分かってしまうと滑稽に聞こえますね。

さて、理性天動説批判の要点は、「日本はキリスト教国ではないのから理性生得説は無効である」ということでしょうか。だとすると戸塚氏が心体二元論(=キリスト教)的な生命観の提示していることと矛盾します。心体二元論はキリスト教的な「汚れた肉体」と「清らかな精神」という二分法を下地にした思想ですからね。

しつこいくらい繰り返しますが、理性や良心といった概念はそもそも生得的な能力として捉えられているのであり、そこにイスラエルの神(戸塚氏がエホバ*5と呼ぶもの)が介在する余地はありません。もし理性が神によってもたらされるもの(=恩寵)であるのならば、それは理性の定義に反するので理性とは呼ばれることはありません。

更にいえば、理性という概念は古代ギリシア期に成立したものであり、キリスト教がその成立に関与したという事実は全くありません。キリスト教が「理性」という概念を現代まで継承した、というならば必ずしも間違いではありませんが…。

同様に、第1条に出てくる「自由」、「権利」、「尊厳」、「平等」、「良心」などの言葉もすべて再検討しなくてはなりません。

教育理論を語っているわりには近代思想批判が続きますね。戸塚氏はどうやら近代思想すべてに懐疑的なようです。本気で近代思想を否定したいのならば、何よりもまず憲法が保障する「表現の自由*6」を自ら否定し、社会に発言する行為を今すぐやめるべきでしょう。

そもそも近代国家の思想的基盤にはキリスト教が何らかの形で影響していますから、人権や理性といった概念にキリスト教的な感覚が織り込まれているのは当然です。もしキリスト教の影響を受けた一切の近代思想を否定するとすれば、「国家」という概念自体を捨て去らざるを得なくなります。「国家」はトマス・ホッブズというイギリスの思想家によって初めて自覚的に唱えられた概念です。高校の教科書にも書いてあります。ホッブズは聖職者の子どもでもありますし、キリスト教が彼の思想に影響を与えたことは疑いのないことです。

また、神は人類に「救い」を与えはしますが、地上において自由やら理性やらは与えてくれないのです。聖書を読んだことがある方ならお分かりでしょう。イスラエルの神を信じる者は、神の意のままに振舞わなければなりません。神が「汝の息子を殺して生贄にせよ」と命じたならば、その命令にも従わなければなりません(これは実際に旧約聖書の創世記にある挿話です)。つまり、地上において自由を主張することは、むしろ神への背徳にも似た行為なのです。本来、自由や理性(論理)は悪魔の所有物であり、キリスト教的道徳観に反抗するものです。

つまり、戸塚氏が批判するような諸概念は、西洋文明がキリスト教を地盤としながらも、それを超克しようとした試行錯誤の産物です。だからこそ、近代国家は政教分離を旨としているのです*7

近代思想の諸概念ひいては国家をも否定するとは、戸塚氏は無政府主義者なのでしょうか。それとも高校レベルの知識もご存じないのでしょうか。

たとえば、「自由」という言葉は、原文では「free」と「liberty」の2種類が使われていることをご存知でしょうか。これほど基本的な概念さえあやふやなまま、戦後民主主義思想は築かれてきたのです。

まず基本的な知識を確認しましょう。まず、この二語は語源が異なります。freedom *8は古英語を語源とする単語であり、liberty はラテン語を語源とする単語です。後者の方が若干高尚な響きがありますが、確かに日常的にはどちらもほぼ同じ意味として使われます。

ところが、この二語には自由の意味合いに若干の差があります。実は、英語はこの二語で「(日本語の)自由」が持つ二つの側面を言い分けているのです。即ち、freedom は発言や行動を「〜する自由」であり、liberty は束縛や支配といったもの「〜からの自由」です。言うなれば前者は積極的自由であり、後者は消極的な自由を意味しています。

実際、イギリスの支配から独立した際にフランスから送られてきた石像を英語で The Statue of Liberty と言います。日本語でいうところの「自由の女神」のことです。つまり、イギリスの支配からの自由を記念しているのです。また、911テロの事件現場(Ground Zero)に建築中の塔の名称が Freedom Tower であるのは、アメリカはテロリストの支配や束縛下にあるわけではないためです。むしろテロに屈せず積極的に戦っていく自由意志の表れとも解釈できます。

要するに、世界人権宣言における「自由」は曖昧ではありません。むしろ英語は自由の異なる側面を使い分けるという意味でより厳密なのです。戸塚氏の誤解は、日本語のジユウという言葉が本来の「自由」が持つ二つの側面を同時に内包していることをご存じないために起きたと考えて良いでしょう。どちらかといえば教養の問題です。

教育に関しては、教育の目的を初めから失ってしまっていました。この事実が今、教育崩壊という事態を生じさせたのです

戸塚氏の主張する教育の目的(=知情意の鍛錬)は、単に氏の恣意的な選好によるものに過ぎません。日本は戸塚氏の所有物ではありませんから、その目的が初めから組み込まれるべきだったと考えること自体が非合理的な期待なのです。ましてや、その恣意的な判断が反映されていないために教育崩壊が起きたという主張は全く理解し難いものです。

(続く)

*1:参考文献:『武士道の逆襲

*2:この有名な一節は、原文では「(神に祈るならば)健全な身体において精神が健全であることを祈るべきだ」となっています。つまり、「健やかな身体に健やかな精神が宿っていれば良いんだけどなぁ」という人間の理想を述べているにすぎません。現実にはそうならないからこそ、神に「祈るべき」なのです。

*3:正確には、カトリック教会がギリシア文明の科学を公認していただけです。

*4:実際には誤りではなく、天体の動きを説明する際、地動説に比べて圧倒的に非効率であったに過ぎません。

*5:ちなみにイスラエルの神はヤハウェであり、エホバは旧来の誤った読み方です。ただ、みだりに神の名を口にする者は裁きを受けるらしいですよ。

*6:ご存知の通り戸塚氏が憎む「人権」の一部です。

*7:とはいえ政教分離が完全にできた国はまだありませんが…。

*8:free は形容詞です。liberty と並列するならば freedom にすべきでしょう。