恋愛資本主義が君に非モテでいられる権利を与えた

これほど自由度が高い恋愛を楽しめるのようなったのは、ここ数十年くらいの流れだ。
古来、男女が家庭を築くというのは、共同体のためであった。共同体が存続するためには、共同体が強制力を持って適齢の男女に家庭を持たせる責任があったからだ。つまり、恋愛を娯楽化するためには、その土台として確固とした個人主義が社会に根付いていなければならない。言い換えると、結婚は「あくまで個々人の契約の問題である」という風に社会が捉えるようになる必要がある。

非モテ」という存在が社会に存在しているのは、社会が彼らに「非モテ」であることを許容しているのからである。一定の年齢になったら自分の望まない相手と強制的に夫婦関係を結ばされるのと、自分の望む時期に望む相手と結婚するのとどちらが良いかと言われれば、恐らく多くの若者は後者を選ぶだろう。そう、現代社会(=恋愛資本主義社会)は若者の自由を尊重している。

逆を言えば、恋愛資本主義の世の中だからこそ、非モテであることが許されているのである。間違っても自分が非モテであることを恋愛資本主義の所為にしてはいけない。非モテであることは現代人の権利である。意図的にしろ、意図的でないにしろ、あなたが非モテであるのは権利を行使している結果だ。

勿論、その権利にも表裏一体の義務がある。但し、義務といっても周囲からお節介な説教やら下世話な野次を頂くくらいなもので。