諦めることが一番難しい

一般的に私たちは、何らかの劣等感をそれを補う変化によって解決しようという方法、即ち努力によって劣等感をなくそうとする。しかし、何らかの変化による解決法が根本的に劣等感を払拭することには繋がらない。要するに、劣等感を覚える原因が別の事柄に移動するだけである。

例えば、ここに身長が低いことと体重が重いことに悩む少女がいるとしよう。この少女が本気でこれらの劣等感を払拭しようと試みた場合、まずは変化しやすい体重を減らすことを思い付くだろう。そして、見事体重が減ると変化しにくい身長に着手することになる。しかし、体重に比べて身長は増減しにくい。例えこの少女が何らかの方法で身長を伸ばしたとしても、今度はそれ以外の「より変化しにくい」部分に劣等感を覚え、その改善に時間と費用と労力を投資し続けることになるだろう。

何故、劣等感はいつまでも燻り続けるのだろうか。それは、劣等感を解消する方法が間違っているからである。現代の日本では、変化(努力)を至上善とする「倫理」がまかり通っている。勿論、変化そのものが必ずしも害を及ぼすとは限らない。しかし、問題を単に変化のみで解消しようとすれば、ある変化に連動して変化する他の属性が次の問題になってしまう可能性がある。

つまり、私たちは「劣等感解消中毒」に陥っている。この中毒の何が問題なのだろう。

劣等感がうまく解消できている間は、とりあえず何の問題もないだろう。しかし、上にも述べた通り、ある劣等感を解消した途端に別の何か(しばしばより解消困難なもの)が劣等感を喚起する原因とになる。こうして次々と劣等感を撃破していく度に更に難易度が高い問題が現れることになる。この循環の行き着く先は、原理的に解決不可能な問題に突き当たることになる。

つまり、劣等感解消の中毒に陥れば、その先には必ず絶望が待っている。しかも、その本人の能力が高ければ高いほど、この絶対的な絶望に辿り着く可能性が高まっていく。

この循環を断ち切るにはどうしたら良いか。それは、健全な「諦め」を身に付ける他にはない。正しい諦めを持ちながら努力を続けていけば、決して絶望に陥ることなく純粋に自分の変化を楽しむことが出来るようになる。しかし、健全な「諦め」を得るのは難しいことだ。大抵の人間が「諦め」を悪いものだと考える原因もここにある。

人間の脳は老化していくごとに論理性を重視する傾向が強まっていく。そのため、ある程度成長した人間は、「生きる意味」がなければ生きられないと考えるようになってしまう。また、生きる意味と私たちがよぶものは、しばしば「変化への信奉」へと姿を変える。つまり、変化しなければ生きることが出来ないと考える原因がここにあるワケだ。

子どもの頃には、誰しも意味を求めず遊んだ記憶があるだろう。また、子どもの頃の遊びは打算がなく、夢中になるほどの面白さがあったハズだ。この経験から、私たちは諦めの正しい在り方を知ることができる。つまり、正しい諦めとは、謂わば「自分を含めた世界の無意味さ」を知ることに似ているのだ。

意味を求めないことによって私たちは純粋に物事を楽しむことができる。つまり、「諦め」とは変化を止める言い訳ではない。見方を変えれば、むしろ無限の変化を促進する糧とすらなる。意味に固執することで底なしの無意味が生まれ、無意味を知ることで地に足が着いた意味が生まれる。真の諦めは、その外側から眺めれば、むしろ決して諦めない強い精神にすら見えることだろう。