惨めさを型にはめる

世の中には惨めな人間というのが一定数存在している。まぁ、ウェノム社会のネットでは「非モテ」とか「ひきこもり」といったコミュニケーション関係に苦手意識を持っている人間を惨めだと考えるのが多い*1

そういった「惨めさ」は色々な単語で定義され、区別されている。議論の見通しを付けやすくするためだ。但し、ここに一定の問題が生じることを自覚している人は少ないかもしれない。

例えば、NEET という「概念」が流行し始めた頃、とあるニュース番組に登場した男性(通称・NEET君)が NEET の代表格(NEET とはこういう人間だとする感覚)として扱われるようになった。この型によって、NEET なんて「働いたら負け」だなんてことを考えてるバカ野郎*2だというネタとしての面白さが増大した。
ただ、実際の NEET というのは、その一つの概念では捉えきれないほどに多様性がある。例えば、単に失業中だったとか、金持ちのボンボンだから遊び呆けているとか、大学卒業後に資格取得を目指して勉強している(が特定の専門学校に通っていない)、重度の障害者で働くことが物理的に不可能など。NEET の定義を厳密にすれば、こういった人々は除外されるかもしれないけど*3、一定の属性を持った人たちを全部同じ扱いにした方が面倒が少ない。

その上、この枠内に押し込めることにより、その惨め属性を持った人たち「全員が同じ問題を抱えている」とする妄想を働かせることが出来る。NEET は幼児的全能感が云々とか、非モテは女性嫌いとか。惨めさの色合いが似通っているのだから、きっと同じような処方箋で解決できるという思い込みも生まれる。

そういう感じで、自称・正義の味方たちが独断と偏見で処方箋*4を書きまくるが、実際の多様性を無視しているので一向に解決しない。
もちろん、一般論のネタとして遊んでいる分には無害だ。だけど、その妄想が世の中で実践されるようになってくると、実際に問題を抱えている人達にはエライ迷惑な話で。

心理学的な問題だけじゃなくて、経済学的な問題でも構造は同じ。「地方の自治体は努力をしないで税金を食い潰して無駄な道路を作り続けている」なんて意見に見られる思い込みは、「努力しようにも持ちネタが何もない地域」や「国からは与えられた予算を使い切らないと怒られちゃうという現実」という問題の仔細が意図的に無視されてる。かといって実際に解決する気がないから、「クソ田舎に住むことを法律で禁じよう」とか「税金はせめて人口20万以上の自治体に使おう」とかネタを提供してくれるワケでもない。

一定の属性を持つ人たちに惨め認定をして遊ぶのは実際に面白い。けど、遊んでるんだという自覚は大事。隣人が NEET でも自分に迷惑を及ぼさなければ関係ないでしょ?

*1:というように見えるという kilemall の意見。

*2:と思った君は共産主義道徳に浸りきったアカの手先だ!という電波も味わい深い。

*3:そうすると「社会問題」と呼べるほどには絶対数は存在していないかもしれないけど。

*4:道徳的・倫理的な電波発信という呼び方も可能。