鬱と脳内物質

脳内物質の分泌に問題が生じるから鬱病になるのか。それとも憂鬱になるから脳内物質の分泌に問題が生じるのか。あるいは相互作用なのか。ニワトリが先かタマゴが先か。

少なくてもセロトニンの分泌を調整するクスリで身体を騙すことは可能だ。抗鬱薬を飲むのは物理的自己欺瞞の一種と言えるかもしれない。

ところで、鬱病に罹患する明確で根本的な原因は良く分かっていない。既に常識になった感もある知識だが、ある精神傾向がある人々は鬱になりやすく、精神的負荷が高い環境に長時間晒されることでも鬱になり得る。また、遺伝的要素もあるという。

鬱病(精神病)は確かに存在するし、治療も可能だ。しかし、その存在は医学的な決まりごとに根本的な原因があるという考え方も出来る。ニワトリが先かタマゴが先かという話と同じである。人類がニワトリを他の鳥類と区別し、ニワトリと名付けたときからニワトリが誕生した。それ以前のニワトリは、確かに存在していたのに関わらず「鳥の一種」に過ぎず、そのタマゴも「何かの鳥の卵」と受け取られていたハズだ。

結局、問題は「鬱病か先か脳内物質の分泌異常が先か」ではなく、今までは病とされていなかった「何か」を人間の正常な状態と区別し、鬱病と呼ぶようになったことにある。
ニワトリがニワトリと認識されるようになったのは、(誰にも確認できない話だが)ニワトリが食用(特に畜産)に適した鳥類であることを人類が見抜き、その他の鳥と区別することを人間が望んだからだろう。
そうなると、鬱病鬱病と人間が区別するようになったのは、それが人間の望んだことだからだ。

何故、人間が鬱病の誕生を望んだのかは kilemall には分からない。例えば、感情を人為的に操る術を手に入れたいという人間の願望がそれを望んだのかもしれない。古来は宗教が担っていた何かに代わるモノが求められているとも考えられる。少なくとも、鬱病の治療のために多種多様な感情の操り方が見出され続けているのは事実だ。

ところで、鬱病に苦しむ人々は、セロトニンの分泌異常に苦しむというより、「鬱病であること」それ自体に苦しんでいるという話を良く耳にする。細菌やウィルスのように具体的な原因*1によってもたらされるモノではないため、その根本的な原因を自らに求めるしかないからだ。当然、医者も患者に原因があると考える。つまり、鬱病患者は自らを病原体と認めなくてはならなくなる。

しかし、鬱病患者の人々は鬱病の病原体ではない。人類が「異常」であると看做すようになった肉体的状態の枠組みに該当しているだけだ。純粋な認知の問題なのである。

人間が望んで生み出した「鬱病」という枠組みそれ自体が鬱病患者達を苦しめているとするならば、これほど辛い話はない。「鬱病」は人類がそれまでに無かった何かを獲得するための方便なのである。繰り返すが、鬱病患者は病原体ではない。

さて、現代医学は、脳内物質の分泌を操ることによって感情(少なくとも鬱病)が制御可能であることを知ることができた。これは「精神病」という方便から見出された成果である。
結局、鬱病は脳という身体器官の一時的な失調に過ぎない。つまり、肩こりと似たようなものであって「心の風邪」などと呼ぶのは誤解を招くだけだ。「心の風邪」なんてモノが存在するように風潮するのは、鬱病患者を苦しめる結果にしかならないだろう。

「精神病」という言葉はもう捨て去っても良いのではないか。その枠組みは既に役目を終えている。

*1:脳内物質の分泌異常は理由ではなく鬱状態をもたらす仕組み。