努力と才能

努力すれば何とでもなると思っている人は、自分や他人に対して絶対的な信頼を置いている。一方、才能が無ければ意味がないと思っている人は、自分や他人に対して懐疑的だ。

特に努力に懐疑的な人物は、物事に対して悲観的であったり、無気力であることが多い。というのは、努力に価値を置いていないので、才能を常に考慮しなければならないからだ。才能とは、一般的に「結果のみで判断できる要素」であるため、努力する以前や努力し始めの状態で判断すれば、必ず「才能はない」という結論に陥る。それ故、全ての事柄が自分で結果の出せないことに感じられ、悲観的になったり、無気力になったりするのである。

では、努力至上主義や根性論が正しいのかというとそうでもない。努力至上主義は、逆の見方では適切に努力が働く条件や環境を見出したり、作り上げていこうとする視点が欠けている。ほぼ成功するハズがない状況でも、努力に信頼を置くため、常に無理な要求をする。つまり、行動を伴わない失敗に対しては努力至上主義は非常に有効に働き、不可能に挑戦*1した上での失敗では有効に働かない。

しかし、何事にも努力で解決は出来るワケではないが、努力の価値を認めなければ自分の望みを達成することが一切出来なくなってしまう。重要なのは、努力の方向性に懐疑的になることである。努力自体を無価値だと思う必要は余りない。

不思議なことだが、人間には常に可能性がある。しかし、その可能性は万人に共通のものではない。だから、もし努力しようするのなら、自分の可能性に沿った形で努力した方が懸命だ。また、他人に正しい努力の方向性を見付けてもらうことは難しいので、自分自身で見付ける方が早い。これは意外と面倒な作業だが、他人に方向性を押し付けられるよりは気が楽だ。

また、他人に「努力しろ」というのが口癖な人は、その人物がどのように努力すればうまく行きそうかを良く考えて助言してあげると良いだろう。努力することが大切なのは誰でも分かってるワケで、その努力がうまく行かないからこそ人は誰かに相談したくなる。その信頼にしっかりと答える「努力」はしよう。それから、間違っても自分が上手くいっただけに過ぎない方向性を過大評価して他人に薦めないこと。

この世に本当に才能というものがあるとすれば、それは個人が自分自身にとって最適な方向性にうまく努力を重ねることが出来た結果である。そういう意味では、巷に溢れる努力のヒント(指南書とか手引き、マニュアルといっても良い)というのは、とある他人が偶然にうまくいっただけの方向性である可能性が高い。ホモ・サピエンスは、その名前が指し示す通り、脳が発達した高等生物であるのだから、他人の方向性を鵜呑みせず、常に自分向きに応用することに意識すると具合が良いようだ。ところで、鵜呑みの「鵜」は鳥類であって高等生物ではない。

まとめ

努力は方向性が重要である。そして、最適な方向性とは個人の性質に依存するものである。

*1:「極めて難しい」という比喩としての「不可能」ではない。