文化的な差異は何故私達を苛立たせるのか

文化的な差異がもたらす苛立ちは、小額の支払いのとき小銭が一円だけ足りず、万札を出さざるを得ないときの苛立ちに似ている。それはこだわる必要はないし、こだわることが不利益になると分かっているのにも関わらず、こだわりたくなる。

それは両者の間にある壊すことの出来ない壁を直視するのに似ている。自分の無力を認めたくないから、それを壊そうとする。だが、その壁は決して壊れない。ベルリンの壁は単なるコンクリートだが、脳神経はダイヤモンドよりも固い。

その何かに対する態度は、「それ(存在)」が「そう(実体)」である必然的背景(条件)である。それを壊すことは、存在が実体である条件そのものを無効化することになり、その存在を根底から否定する行為と言える。当然だが、これは一個人がそう簡単に出来ることではない。せめてその破壊行為に命を懸ける覚悟が無ければ。

もっとも、命を懸けたとしても変えられないかもしれない。その破壊活動は、結果として純粋な時間と費用の浪費となることの方が多いだろう。それにも関わらず、なおも私たちは変化への欲望を抑えきれない。これが人類が根本的に持つ本能でないとしたら、一体何なのだろう。

人類は自分たちの脳の囁きを具体化し、その奴隷として生きている。人を駆り立てるのは、遺伝子による種の保存計画より、その脳の囁きによる環境への干渉の欲求である。

つまり、変えられないモノを変えたいという本能が私達を苛立たせる。まるでそうすることが快楽であるかのように。