天皇制廃止論と侮辱罪

日本国では、国家元首である天皇(正確には皇室制度と呼ぶべきだが)に対して廃止論を唱えることも合法であり、またそういった思想を出版する際、何の検閲を受ける危険性もない。こういった日本国の現状に疑問を持つ人も多いかと思われる。

さて、この現代においてもなお、国家元首に対する侮辱罪が残存している国は幾つか存在している。そういった国を良く観察すると、むしろ国家元首に対する尊敬の念は強迫的かつ洗脳的あり、また形式的で非合理的であることが多い。

敬意というモノは強制されればされるほど、軽薄で無意味な感覚になっていく。何故なら、その敬意は自然な感情の発露によるモノではなく、単に集団生活における決まり事を守る行為に近くなるからだ。例えば、「赤信号になったら道路を渡らない」という法律を守る際、信号に対する敬意などあるワケがない。ただ無感情に(ときに損得勘定で)決まりを守っているだけだ。いや、道を急いでいるならば、赤信号に対してむしろ「殺意」すら覚えるだろう。

反権力的な連中が一定数存在し、権力を批判し続けるからこそ、権力の存在に対する背景理論を何度も再考察する必要性が生じる。その過程で権力の理論は鍛えられ、より強固なモノに変わっていく。また、それはただ強固なモノに変わるだけでなく、より自然で合理的なモノに作り変えられていく。

そうした鍛え上げの作業を終えたとき、初めてその権力は自然意思による敬意が払われるようになる。

具体例として、ローマ・カトリック教皇プロテスタントの信者にすら敬意を払われていることが挙げられるだろう(適切な例ではないかもしれないが)。本来、ローマ教皇は反カトリック派であるプロテスタントの人々からすれば腐敗の象徴であり、軽蔑すべき敵であるはずだ。だが、カトリック教会は歴史的に批判され続け、その度に自らを少しずつ自然で合理的なモノに作り変えていった。こうしてプロテスタントの信者たちも少しずつローマ教皇を受け入れていったのだ。

そもそも、初期のキリスト教*1は現代的に言えばカルト教団に近いモノであったが、長い時代の変遷と共に現在のような穏健な宗教へと変貌を遂げている*2ことを忘れてはならない。

つまり、国家元首を平気で侮辱する人物が大手を振って歩ける国の方が、むしろその元首に対する敬意は合理的で無理がなく、より強固なモノになっていく。権力とは、どんな形であれ、その権力の被支配者による支持がなければ維持できない。絶妙な嘘と幻想によってのみ維持された権力は、その均衡が破れた瞬間、あっけなく崩壊する。

批判が禁じられた権力というのは、どこかに致命的な脆さを持っているものである。その権力を健全に維持したいと願うのならば、むしろ自ら批判を受け入れるべきだし、逆にその権力の終焉を願うのならば、一切の批判を許してはならない。

結局、侮辱とは逆説的な敬意である。汝天皇を敬愛するならば、むしろ絶えず批判せよ。逆に天皇の死を願うのならば、批判の一切を許すな。右翼団体街宣車のように。

*1:俗にパウロ教とも皮肉られる

*2:とはいえ、日本人にとってはまだ不自然で「怪しさ」が残る宗教だが。