Wikipedia の文章を宿題に引用してはいけない理由

Wikipediaは、本質的には匿名の記者によって書かれた落書き帖*1だ。故に、その「公正中立」の百科辞典の信頼性は読者が担保しなければならない。一般的に、出典の価値がある資料というのは、その資料が身元が明らかな特定の著者によって書かれ、その内容について(信頼性の担保を含めた)全責任を著者自身が負うモノのことを指す。だから、その信頼性を読者が自ら担保しなければならない Wikipedia は、結局、資料としての価値が全くない。故に資料として用いてはならない。

では、Wikipedia とは何のために存在しているのか。強いて言えば、これは壮大なインターネットそのものを対象とした一種の実験だ。人間は強制的な規則*2ではなく、道徳律や倫理観に基づいて有益な何事かを達成し得るのかどうか。Wikipedia は、それを検証するための堅苦しい落書き帖であり、何らかの資料的価値を無料で私たちに提供してくれる崇高な Webサービスというワケでは全くない。

まるでその証拠であるかのように、Wikipedia の創設者自身(Larry Sanger)が匿名性を可能な限り排したオンライン百科辞典を立ち上げている*3。「親の顔が見てみたい」とは手垢の付いた日本語の罵倒表現だが、この言葉が意味する通り、この時代にあっても原始的かつ肉体的な身分の保証*4こそが最も合理的な信頼性の確保手段ということになるということだろう。

哀れな乞食よ、自分はどうなのだ。

同様に、この電波受信記録も資料としての価値は全くない。この場所は、一説には意味や価値のない文章を集めて海馬の肥やしにするためにあると言われている。人によっては、いい加減な嘘やデタラメな誇張、知恵の足りない極論などを楽しむことも出来ます。

*1:アカウントユーザがいるとは言え、これは実質匿名と同じ。

*2:罰則と言い換えても良い。

*3:http://en.citizendium.org/wiki/Main_Page

*4:日本では、伝統的にその個人が属する家族に関する情報が身分の保証になるらしい。