文化的テロリズムとしての Wikipedia
Wikipedia に関する議論の際、しばしば「修正すべき箇所を発見したのならば、苦情を言う前に自ら編集するべき」といった主張を目にすることもある。しかし、これはWikipedia という Webサービスの本質的な目的*1を鑑みれば不合理な話だ。Wikipedia とは、執筆陣や管理者たちがどう思っているかとは関係なく、自主契約に基づく協同事業だ。自主契約とは、言い換えると、「Wikipedia を作り上げていくことは価値があることだ」と信じることである。つまり、一種の信仰告白である。*2
つまり、Wikipedia を作り上げていくことに何の価値も認めない人々からすれば、Wikipedia に間違った情報や、主観的な思い込みが「公正中立」の衣を被って主張されていることは、殆ど拷問か強制猥褻に近い。この猥褻物を取り除くには、この宗教に嫌でもに入信しなければならず、またこの宗教は一部の特権階級が強い影響力を持って若干機能不全の様相を呈しているため、徳を積んでいない新米信徒に真実を口にする余地が(彼らが主張するほどには)残されてはいない。*3。宗教革命直前のカトリック宗教界と類似していると言えるだろう。ヤン・フス*4は殺された。
しかも、この宗教(ウィキ価学会)が個人の名誉毀損に関わり始めると事態は非常に面倒なことになる。ある個人の著作物によって他の個人の名誉が傷付けられたのならば、この被害者は当の加害者に法的な手段でもって誹謗中傷の訂正と謝罪、またそれに関わる賠償を求めることが出来る。しかし、Wikipedia という仮面舞踏会では、訴える相手が原理的に存在しない(あるいは半匿名な管理者全員か殆ど関係ない同財団を訴えるという愚挙しかない)。例え訴えるべき相手を特定したとしても、「法的な問題は Wikipedia の蚊帳の外でやってね」という決まり事まである。清々しいほどの無責任さだ。
また、この宗教は読者に法的な解決手段を採ることを道徳的に禁じている*5。「自由な編集」の重要性とか、「ウィキペディアの中立性」などというのは信徒でない者からすれば、暇人の戯言でしかない。現実に損害を被っている本人の名誉やら人権などウィキペディア神の前には「祗園精舎の鐘の声」で始まる最後の句と同じなのである*6。
まとめ:Wikipedia 教団がやりたいこと
私たちの聖書の字句が間違っているというならば、
いつでも編集して構わない。
しかし、この信仰自体を否定することは決して許さない。
これはもう文化的テロリズムだ。