飽きられるインターネット

インターネットの本来の目的は、都市部から遠く離れた場所でも都市部で働くのとほぼ同等な環境を用意するといったように、物理的に不利な条件を電脳的に解決するといった事柄が中心であった。しかし、現実にはインターネットは物理的に不利あるいは有利な条件をより強調する方向に向かいつつある。それ故、特定の人々や特定の地域の人々にとって、インターネットは既に飽きられつつあるものになりつつある。

現在においてインターネットは、本来の対象となっていたはずの「僻地」よりもむしろ、「都会」を中心とした利用のされ方が主になっている。インターネットによって情報が比較的均一に広まりつつある影響で、都心部でしか得られないとか、経験できないといったものが全国中で話題になるためだ。

こうなると当然、情報そのものではなく、情報に基づいた行動によって人々に格差が生じる。つまり、幾ら情報が均一に広まり、情報が入手しやすくなったとしても、その情報は基本的に物理的な条件に縛られたものであるため、その情報に基づいた行動が取れない層が必ず存在する。具体的に言えば、東京発の話題は東京という地域に物理的に縛られており、その話題に例えば北海道だとか沖縄の人々が付いていくのは非常に困難だ*1

人々の選択は二つしかない。一つは話題の地域の周辺に住むこと(あるいは巡礼を続けること)。もう一つは話題の地域とは決別すること。決別を選択した場合、自分が関与できる地域の範囲においてインターネットを活用することになるが、一部の大都市圏(東京周辺、京阪奈、中京)を除いて継続的に話題を提供し続けられる地域は少ない。というか、無いといっても良い。結果として、インターネットは飽きられる。

毎日のようにネットに接している人々には信じ難い話かもしれないが、世の中には既に意図的にインターネットから離れる人々が増えてきている。勿論、インターネットに接しながらもその心理的距離が離れつつある人々もいる。インターネットに未来への希望を見出す人々に至っては、今や絶滅危惧種だ。

結局、インターネットが人々を結び付けるという考えは幻想でしかなかった。厳密に言えば、ネットは人々を結び付けてはいる。しかし、それは小さな箱庭の範囲内*2でのことである。故に、大多数の人々にとってインターネットはむしろ人々の分断を招いてる。その分裂は次第に広がり、修正不可能なほど広くなり、インターネットは単なる小宇宙の集合体に過ぎなくなるだろう*3(これは明らかに単なる現実社会と同じ構造)。

あるいは、崩壊寸前の mixi のように、排他性を積極的に採用することで生じる利便性もあるだろう。しかし、こういったサービスは明らかに人々の分断を生む。ネットそのものが現実社会のように人々の間に排他性を生じさせるのだとしたら、その交流がネットにおいてなされる意味があるのだろうか。今のところ、この疑問に答える決定的な答えはない。

ましてや日本は、日本語という特殊な言語により、世界との繋がりが気迫になりがちな地域だ。海外のWebサービスを利用していたとしても、日本人同士は周囲の人々と孤立する傾向が強いことは一考の余地がある*4

確かに、こうした物理的な垣根を越えるための知恵がネット上に存在しないワケではない。例えば、仮想3D空間で「もう一つの人生」が楽しめるという謳い文句で広まった "Second Life" がある。しかし、Second LifeWikipedia 同様のある種の宗教であり、それ自体に価値があると信仰しなければならない点で島宇宙化は免れない。

極論を言えば、もはやインターネットは「もう一つの人生」ではない。その現実社会と全く同等の世知辛さがあり、危険があり、不自由がある。現実社会を拒否し、引きこもる人々がいるように、インターネットを拒否し、インターネットから引きこもる人々が増えつつあるとしても全く不思議ではない。インターネットから引きこもれば、むしろ完全に排他的な人間関係を楽しむことも出来るのだから。

余談

機能不全に見える交流は若者だけの特権ではない。

*1:原理的にはそうだが、北海道における都市部の人々は比較的情報に付いて行きやすいハズだが。

*2:趣味の世界や学術面など

*3:某巨大匿名掲示板において見られるような、異常に細分化された掲示板の議題がその良い例だ。

*4:同様に中国語やフランス語といった世界の主要言語の話者たちも孤立しがちだが。