アメリカ人という人々

アメリカ人を怒らせたいのならば、「またテロリスト攻撃がアメリカにあれば良いね*1」と言えば良い。彼らは激昂し、ありとあらゆる汚らしい言葉をあなたに投げかけてくるだろう。そして、自分がそういった無礼を働いているにもかかわらず、全ての責任をあなたの一言に帰することだろう。たとえ、あなたが相手に「絶対に使うべきではないある種の単語」を用いなかったとしても、だ。

一方で、自分たちの間違いについてはどうだろう。例えば、日本によってアフガニスタン用に供給された石油をイラクに流用していたり、先進国で唯一効果的な環境対策に消極的だったり、過剰な殺傷力を持つ実戦兵器*2に対する規制に参加しようとしない。こういった間違った選択を悪いことだとは微塵も思わないだろう。それは何故だろうか。

ところで、日本人は外国人嫌いだ。しかし、外国文化は積極的に受け入れようとする。しばしば外国人の日本に対する考え方を聞くことを好む。そういった考え方を聞くことで自分たちの行動を修正していこうとする気概がある。

一方でアメリカ人は正反対だ。彼らは外国人嫌いではない。むしろ積極的に受け入れるくらいだ。しかし、彼らは外国文化を嫌う。それだけではなく、外国人の考え方自体を嫌う。正確に言えば間違っていると考える。だからこそ、彼は常に自分たちが正しいと確信している。アメリカ人と付き合うのは、ある意味で極東アジア(韓国・中国)といった鬱陶しい連中よりも骨が折れることがあるし、東南アジア(タイ・フィリピン・マレーシアなど)の連中よりも考えていることが分かりにくい。

アメリカ人は一見、とても友好的に見える。実際に友好的だ。彼らは外国人嫌いではない。しかし、一度自分たちの文化や考え方に沿わない行動や発言を行った途端、その友好的な態度は一変する。だから、彼らと仲良くしていくためには、彼らの思想や行動の奴隷にならなくてはならないのだ。そう考えると、アメリカの生活に慣れきった日本人が日本人社会にうまく適応できなくなるのも良く分かる。アメリカでうまくやっていくには、擬似アメリカ人にならざるを得なく、それ故に日本社会に不適応を起こしてしまうからだ。

結局、反米も親米もあまり大きな意味を持たない。アメリカ人は相手がどんな考えで動いているとか、話しているといったこととは関係なく、自分に都合が悪ければ全て否定し拒絶する。アメリカ人に NO といっても、相手が NO といっても良いと思っていれば関係は悪くならない。一方で、YES といっても相手が YES と言われたくないと思っていれば関係が悪くなる。

これは日本の考え方とは正反対だ。日本人ならばどんなことであれ、YES といわれれば便宜を図らなくてはならない(義理)と考えるし、NO といわれればどんなことであれ意趣返しをしなければならない(恥)と考える。日本人にとっては相手の行動が自分に都合が良いかどうかは関係ない。押し付けられたものであろうと義理は義理*3だし、望んだものであろうと恥は恥*4である。

そう考えると、果たして日本にはアメリカと付き合う上での「選択」など最初からないのではないかという疑念が湧いてくる。つまり、最初から日本には、アメリカに対して交渉の余地などないのでないだろうか。YES であれ NO であれ、相手の思う通りに行動しなければ許されない。アメリカでうまくやっていくには、擬似アメリカ人にならざるを得ないし、日本の国益よりもアメリカの国益に配慮した政治的選択を迫られ続ける。

さて、こういった現状を肯定するか否定するかは個々人の考え方だ。アメリカの傀儡になることが日本の国益を守る最善の手段と信じるならば、それが正しいだろう。アメリカに反発してアメリカによるあらゆる便宜を放棄するのが国益を守ると考えるならば、それも正しいだろう。但し、我々日本人が忘れてはならないがある。アメリカに従順であろうとなかろうと、アメリカは日本の国益を守るつもりはないし、いつまで経っても日本に対する評価を変えるといったことは(彼らの気分がよほど良くない限り)有り得ないということだ。

*1:I hope for yet another terrorist bombing to USA.

*2:核武装は実戦兵器ではない。

*3:仁侠映画の王道である。

*4:自分の選択に責任を持たない思想背景である。