イジメの二律背反

イジメを肯定する人たちがいる。そういった人たちに共通しているのは「過去にイジメられる側であった」ということだ。イジメられた経験を乗り越え、自己変革を成し遂げた人たちである。

イジメを否定する人たちがいる。そういった人たちに共通しているのは、やはり「過去にイジメられる側であった」ということだ。イジメられた経験を物ともせず、一芸に秀でることによって自分を貫き通した人たちである。但し、その多くは芸能人や芸術家、スポーツ選手といった限られた人たちだけだ。

前者の人々はイジメを否定できない。彼らはイジメを契機に自分を周囲に合わせて曲げることによって生き延びてきた。彼らは「今の自分」が正しいと思っている。そして「過去の自分」は全く間違っていた(だからイジメられた)のだと考えている。彼らにとってイジメを否定することは、自己の在り方を決定した根本的な要因を否定することに等しい。即ち自己否定だ。こうして彼らは「過去の自分」を何やら恥ずかしい人生の汚点のようにして生き続けることとなる。

後者は幸運な人々である。彼らは自分に眠る潜在能力を引き出すことにより、周囲との新しい関わり方を獲得した人々だ。意地悪な言い方をすれば、社会の中に自らを押し込んだ人たちとも言える。まさに「ジコチュー」な振る舞いだ。しかし、そうすれば「過去を自分」を否定する必要はない。彼らはむしろ「過去の自分」を輝かしい人生の序章として振り返ることができるだろう。

さて、この問題の本質は何だろうか。いささか唐突だが、シベリア抑留において鹿野武一という男が取った立場に答えがあるように思えてならない(ペシミストの勇気について)。彼が尋問員に呟いた一言(「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」)。この言葉こそが問題の答えだと言っても良い。

あなたを否定する存在が「人間」であると規定するならば、即ち、否定される存在(=あなた)は人間ではない。あなたは人間にならなければならない。人間の皮を被らなければならない。逆に、否定されるあなた自身こそが「人間」なのだと規定するならば、あなたを否定する存在は「人間」ではない。あなたは「人間」がいる世界で生きれば良い。