現実逃避と現実没入

思えば、現実逃避という言葉は二つの意味に取れる。一つは、「現実からの逃避」で、もう一方は「現実への逃避」だ。現実から逃げることが悪いことのようにされて久しいが、現実に逃げ込むことが悪いと言われることは聞いたことがない。

多くの人間は、現実から逃げることよりも現実へ逃げることが多いような気がする。人々が「現実」という言葉を口にする度に、それは誰にとっての「現実」なのかを質問したくなる。

「現実」というのは、どうやら確かに存在しているようだ。しかし、人間の身体は、どうやってもその「現実」という実体を正確に捉えられるようには出来ていない。例えば、死期の近いことを自覚した人間は、日常の些細な出来事が奇蹟のように感じられるという。
つまり、人間の唱える「現実」というのは、そのときの気分次第に幾らでも変わり得る。「現実」という言葉にはそぐわないが、「現実」とは可塑性のある何かだ。

結局、「現実」とは個人的あるいは集団によって是とされる可塑性のある何かである。そして、「現実」とは、人生において無数にある逃げ道の一つに過ぎない。

現実へと逃避することは、自分が理想とする事態から逃避することに似ている。つまり、「100点を取ること」が理想だとして、現実的でないからと「80点を目指したが故に結局60点しか取れなかった」というようなことである。

イエス・キリストが「神の国は、あなた方自身の中にある」と唱えたように、現実というモノはあなた方自身の中にある何かなのである。現実から逃避することを恐れるあまり、現実へ逃避することになるのでは、本末転倒だ。現実逃避ならぬ、現実没入にも気を付ける必要があるかもしれない。