幸せな人々を呪え

キリスト教圏では、余り罪悪感というモノを意識しない。キリスト教圏では、罪悪感というモノを過剰に意識する。キリスト教圏の金持ち達が常に寄付やらボランティアやらに強い関心を抱くのは、彼らが人並み以上に裕福であることを気に病んでいるからだ。平たく言えば、「何もせずに死んだら地獄行きだ*1」と何となく感じてしまうからでもある。

もっとも、非キリスト教圏である日本国にいる人々も罪悪感を感じないワケではない。つまり、自分が人並み以上に幸せだと思っている人は、人並みに幸せでない人々に対して罪悪感を持つ。だが、別にその罪悪感を解消しなくても何の問題もないと考えている。いや、むしろ仏教の影響を受けた国々に住む人々は、己の幸せを「過去から受け継いだ遺産」のように感じる傾向もあるだろう。

だから、人並み以上に幸せだと考えている人達は、自分たちの罪悪感が顕在化しないように人並み以下に幸せな(と彼らが考えている)人達に「あなたが悪いのだから、私たちを恨むな。呪うな。ましてや無心するな」と命令する。

その程度の自分勝手なら、まだ可愛いものかもしれない。自分たちの幸せを当たり前のモノと考えるが故に、幸せでない(と彼らが考える)人々に「私たちのように幸せになってみせろ。とても簡単なことだ」とけしかける。勿論、それは簡単ではない。それどころか、不可能であることもある。

しかし、幸せではない人々が「幸せな人々のような幸せ」を求めようともがく姿は、幸せな人々にとっては非常に愉快なモノに映る。何故なら、彼らは既にその幸せを手にしているのであり、その手にしている幸せが必死に求めようとするほどの価値があると再認識することができるからだ。

惨めな人々が幸せな人々に対して唯一できる反抗は、彼らの意に沿わないことぐらいだ。故に彼らを恨み、呪え。必要な場合は無心しろ。それこそが惨めな人々にとっての真に倫理的な行いである。惨めな人々がどれほど不当な仕打ちをしようと、幸せな人々に近付くことは決してできないのだから。


話を変えよう。

多くの幸福は既製品である。自分だけの幸せを見つけるのは極めて難しい。但し、それに挑戦するかどうかは本人次第だ。誰のものでもない特注品の幸福は、時間と費用は掛かるが着心地がとても良い。

特注品の幸福は、幸せな人々を羨ましがらせる。何故なら、それは不幸な人々のみに許された特権だからだ。自分だけの幸福を仕立てることこそが彼らに対する究極の反抗であり、最も聖なる手段であると言えるだろう。

*1:輪廻転生とか、徳を積むとか。お釈迦様が全身全霊で否定したことなんだけどね。