思想の悪魔

知的な関心を抱く人々は、思想的立場の違いで諍いを起こす。その違いが本質的な差異だと錯覚しながら。しかし、知的な水準の低い人たちの程度を改めて認識し直すと、途端に知的な争いなど些末な内輪揉めに過ぎないのだと気付く。

例えば、右や左の思想的立場の差異は、「考える」と「考えない」の差ほど大きな違いはない。考える人々が最も恐れるのは、自分と全く正反対の思想を持つ者の存在ではなく、自分の思想そのものを無効化ないし無力化、無価値化してしまう「考えない」という習慣である。

故に古来から知的な人々は、いかに考えない人々に考えさせるかに腐心してきた。仏陀は関係のみによって成り立つという新しい世界観を世の中に説き、ソクラテス助産術で相手に無知を気付かせ、イエスは既存宗教への批判精神に基づいて神への新しい信仰を説き、カントは正しい認識に至るための道筋を良く整理した。そして彼ら以外にも多くの考える人々が考えない人々に対する啓蒙に尽力してきた。

しかし、依然として考えない姿勢は考える人々の英智を破壊し続けている。あらゆる思想にとって考えないこと以上に脅威的なものはない。あらゆる名声も賞賛も財産も、死という一瞬によって跡形もなく破壊されてしまうように。

つまり、考える人々にはこの思想の悪魔と対峙する試練が科せられている。思想するならば覚悟せよ。覚悟して思想せよ。