オタクに対する小さな考察

「社交手段としてのオタク文化」という見方

筆者は、所謂オタク文化圏には属していないのだが、不意に今まで「オタク」と呼ばれうる人々に対して間違った認識をしていたのではないかという疑念に駆られるようになってきた。即ち、オタク(あるいはアキバ系)といわれる人種は、アニメやマンガそのものを楽しんでいるというよりも、そういった媒体を介在したコミュニケーションを楽しんでいるだけなのではないだろうか。

つまり、そういったコミュニケーションにハマりこめばハマりこむほど、そういった方面との人脈を断ち切りがたくなる(それ以外の交友関係が希薄になってしまうため)。そういった循環を繰り返していくうちに「オタク」になってしまう。

そう考えると、「オタク」という消費文化圏に属する人々にとって重要な消費物(商品)は、オタク仲間同士のコミュニケーションに有用なアニメなりマンガ、ゲーム*1である。つまり、オタクでない人たちからすれば十分には理解できない(理解しがたい)ものが好ましい。更にいえば、オタクでない人々の目に触れにくいモノが良い*2。恐らくそういった「有用な」オタク文化の一端が「萌え」なのだろう*3。確かに理解しがたい。

社交手段として優れた作品とは?

この文章を書いている人物は(現在日本で進行中の)オタク文化には疎い。しかし、上の仮定を前提にすると現在のオタク文化圏では、作品の内容の良し悪しよりも、それを介在したコミュニケーションが発展しやすいような作品群が好まれているハズだ。

具体的にいえば、オタク文化そのもの(あるいはそういった文化の担い手自身=オタクの生活?)を描いたような作品と考えられる。つまり、主人公自身がオタクだったり、作品の随所にオタク文化のネタ(reference)が散りばめられているような作品だ。

果たしてこの予想は当たっているのだろうか。しかし、確かめる気が全く起きない。オタク文化が必然的に非オタクには理解しがたいモノでなくてはならないとするならば、致し方ないことだろう。

オタクに対する「好意的」な解釈=オタク差別

以上の考察が正しいとするならば、オタク文化は他の若者文化におけるコミュニケーションの在り方と非常に親和(類似)的であると言える。21世紀以降の若者文化は、消費行動による差別化と分散の特徴がある。つまり、「何を買うのか」を中心命題として自分の所属する集団とその他の集団を分割する。自分と相手が同じ仲間かどうかは、彼と自分が同じ商品を消費するかどうかに依存している。そう考えれば、オタクも所詮は現代的な若者たちに過ぎないということなのだろう。

あるいは、オタクを「普通でない」と他の集団から差別化したがるのは、実はオタクに対して偏見を持つ者たちというよりは、当のオタクたち自身なのかもしれない。他の集団と異なっていること自体が彼らの集団意識を満足させるものだからだ。オタクに対する偏見意識を吐露した人々をオタクたちが徹底的に糾弾するのも、そうすることがオタクという集団を結束させ、他との差異を明確化するのに必要だからとも考えられる。

要するに、オタク差別的な言説とは、逆説的にオタク文化に対して「好意的」なのかもしれない。

オタクに対する逆説的な挑発の可能性

オタク文化に偏見を持つ人々は、オタクを自分たちとの差異を問題化して糾弾する。だが、あえて「オタクは一般人と大して変わりのない」と強調することによってオタク文化が否定され得るという可能性を指摘しておきたい。

つまり、以下のような逆説的な挑発もあり得るだろう。

オタクたちは非常に現代的な若者文化の一つに過ぎない。他の若者文化が特別優れていたり劣っていたりすることがないように、オタクたちの文化も格別優れているワケでも劣っているワケでもない。ましてや犯罪者予備軍の集団でもなければ、海外に誇れる文化の継承者たちでも決してない。オタク文化圏に属するパッケージ化された商品を介在して他者とコミュニケーションを取るだけの現代的な若者たちに過ぎないのだ、と。

*1:それ以外に特に思い付かないが、恐らく他にも沢山あるだろう。例えば、オタク文化的な外食がメイド喫茶だろうか?オタク文化的な旅行とは特定のイベント(コミックマーケットなどは筆者でも聞いたことがある)に出席するといったことかもしれない。

*2:分散しているより、一箇所に集まっていた方が好都合=オタクの聖地としての「アキバ」の創出?

*3:但し、2006年以降、「萌え」は人口に膾炙してしまっている。故に、「萌え」はオタク文化の中では衰退しつつあるのかもしれない。