なぜ「青少年が凶悪化」したと危惧を抱くのか: 大人たちの混乱と若者の勘違い

「青少年が凶悪化している」という認識が社会的な誤解であったことが人口に膾炙するようになって久しい。近年では、左記のような認識を抱えたままの教養人は少なくなった。

とはいえ、未だにメディアを含めた多くの大人たちがその危惧から抜け出せていない。メディアの語り口をそのまま信じ続ける人々も少なくない。一方でこういった現状を批判する者も増えているが、両者の溝は一向に埋まらない。それは何故だろうか。

「どんな時代でも大人たちは若者を批判する」といった常識で現状を捉える人々もいる。それは一面的には正しいだろう。老人たちが過去を美化する傾向があることもよく知られている。これも原因の一端だろう。だが、それだけでこの社会の分断状態にも似た若者バッシングブームを説明し切れるだろうか。

大人たちが若者の思考や行動を理解できないように、若者も大人が抱く不安や恐れ、疑問が完全には理解しがたいのかもしれない。そこで今回は、両者の間に横たわる認識の溝を少しずつ埋めながら、大人たちが若者を批判せずにはいられない理由を考えてみよう。

少年犯罪と貧困

現代日本は先進国である。衰退期にあるのは確かだとしても、客観的には依然として裕福な国だ。経済規模は大きく、インフラは良く整備されており、企業活動も活発だ。もしこれが誤った認識だと感じるならば、中央アジアやアフリカ、南米といった決して裕福ではない国々の現状を良く知らない証拠だ。日本に生まれることは宝くじに当たることに等しい。

だが、太平洋(大東亜)戦争直後の日本に生まれることは、現在とは正反対に祝福されるようなことでは決してなかった。戦争の影響でインフラは破壊され尽くしていたし、人心も荒み切っていた。貧困は日常であり、生きることは苦痛に他ならなかった。日本は地獄だった。当時、多くの日本人には現在信じられているような「戦後の希望」などありはしなかったのだ。現代日本に生きる老人の多くは、この地獄を体験した。

良く知られているように戦争直後の青少年の犯罪率は異常に高く、その内実も凄まじいものであった。青少年が犯罪に走る理由は明らかだ。それは戦争による数々の後遺症である。特に貧困が大きな問題だった。今では信じられないかもしれないが、戦後しばらくの間、青少年犯罪の報道には「貧困」という言葉が付き物だったのだ。

ところが日本は豊かになった。幾つかの奇蹟的な条件が重なった結果に過ぎないのかもしれない。だが、とにかく戦後から団塊世代までの実感として、この豊かさは「自分たちの努力によって勝ち取ったものだ」という認識が共有されている。

「もはや戦後ではない」し、あれだけ問題となった貧困は過去のものになった。人々は豊かさに酔い、地獄は終わったのだと確信していった。当然、青少年たちが凶悪犯罪に走る理由などない。実際、青少年犯罪は急激な経済成長と反比例して激減していったのだ。

貧困なき少年犯罪

だが、80年代に変化が起きた。激しい校内暴力を中心とした俗に言う「理由なき反抗」の時代である。もちろん、それ以前にも激しい校内暴力がなかったわけではない。問題はこの「理由なき」という言葉が示す当時の人々の認識である。

80年代はバブル景気直前にあたる経済成長著しい時期でもあり、数々の政治的混乱が収まりつつある安定期でもあった。要するに、戦後を経験した人々にとっては「良い時代」であったのだ。それにも関わらず、未だに若者が激しい暴力事件を(しかも彼らにとって「聖域」である学校で)起こす。当時の多くの大人たちにとって、この事態は純粋に理解しがたいものであった。これが「理由なき」という形容詞が付いた背景である。

大人たちは強い衝撃を受け、大いに混乱した。なぜ青少年は「良い時代」にも関わらず荒れるのか。21世紀の現在にも通じる問題意識がこの頃に顕在化したのである。

混乱し、冷静さを失った大人たちは次第に原因探しを躍起になっていった。80年代に槍玉に挙がったのは、折りしも熾烈さの絶頂期にあった受験競争、所謂「受験戦争」である。こうして「熾烈な受験競争が子どもたちの心を歪める」という神話が形成されるようになっていく。

その次に槍玉にあがったのは、宮崎勤幼女連続殺人事件を発端とする若者のサブカルチャーだ。ご存知の通り、サブカルチャーの中でも特にアニメやマンガといった文化が糾弾されるようになっていった。しかも、もともとマンガ文化は悪書追放運動の名残りもあって弱い立場にあったため、火に油を注ぐが如く、「マンガは子どもに悪影響を与える」という認識が大人の常識化していく。このサブカルチャーに対する糾弾が、それ以降の若者バッシングの基本路線となる。

「凶悪化」の悪循環

ところが、依然として「青少年の凶悪化」は止まらなかった。これには単純かつ構造的な悪循環が背景にある。

まず国民が少年犯罪に注目するようになる。するとメディアは、耳目を集められるような少年犯罪を集中して報道するようになり、また少年犯罪の報道範囲はどんどん拡張されていく。この当時、少年犯罪は増加するどころか、実際には減少し続けている。それにも関わらず、こうして「青少年の凶悪化」がますます激しくなっていくような錯覚が作り出されるのだ。

こうして「需要」に敏感なメディアにより、大人たちは「凶悪化」が進行し続けているような錯覚を植え付けられた。この錯覚は、恐怖の本能に由来するために依存性が強く、次第に自ら「凶悪化」の証拠を求めるようになっていく。ホラー映画が病み付きになってしまう感覚といえば理解しやすいだろうか。そしてメディアはこの「需要」に跳び付く。その意味でメディアだけが「凶悪化」幻想の責めを負うべきではない。

とはいえ、本来ならば「若者の凶悪化」は彼らの望むものではない。繰り返す自己矛盾の末、民衆は半狂乱状態に陥り、強迫的に原因探しを続けるようになった。そして次々と登場する若者文化を非難し続けるようになる。言うなれば、緻密に描かれた絵のバナナをもぎ取ろうするサルのようなものだ。描かせた絵を破り、破っては描かせる。

また、現代の若者文化が個別的な消費行動と深く結び付いている点も重要だ。ファッションや電子機器、娯楽作品といった製品は時代によって次々と移り変わっていく。よって急激な少子化によって若者向けの市場が破綻しない限り、無限に非難の対象生み出され続ける。こうして悪循環が構造的に維持されるのだ。

市場商品化する「心の闇」

悪循環が続くことにより、混乱は更に深まる。だが、どんな事物を原因と取り上げても問題は一向に解決しない。原因はどこかにあるはずなのに、それが見付からない。大人たちは焦り、まるで「闇」の中を手探りで歩いているような感覚に陥る。若者を理解できないと絶望する。彼らがどこかにあると思い込んでいる何か。決して見付からないそれは、次第に「心の闇」と称されるようになった。

このように、現在の若者バッシングブームの根底には、上に述べたような大人たちの混乱と構造的な猜疑心の悪循環がある。ただ、この混乱による勢いが半ば常態化し、バッシングを「需要」と捉えた企業によって「心の闇」が商品化されてしまった。目的が手段化したことにより、問題がより深刻化してしまったのだ。

こうして「心の闇」が日本列島を覆い尽くした。

敵はその外側にいる

ここからは余談だ。

「心の闇」を商品化する企業群は、大人たちと若者世代が感情的に分裂すればするほど、より大きな利潤を得られることを忘れてはならない。だから、バッシング商品を糾弾するような手段では何の解決にもならない。もし、あなたが商品化されたバッシングに対抗しようとするならば、まずはそのことを認識するべきだ。ましてや、読者層が限られるような媒体において商品群を扱き下ろすような行為には何の意味もない。むしろ社会的な分断を助長しかねないからだ。

どんな社会においても若者は批判される立場にある。それは認めよう。しかし、それでも今の日本は異常だと言って良い。なぜから、大人が若者の一挙一動を全否定するという形で社会が分断されつつあるからだ。

企業とそれに群がる人々(「識者」と呼ばれることが多い)は、様々な手段を講じてその分断を拡大化しようとするだろう。この挑発に乗ってはならない。この事態を本当に解決しようとするならば、若者と彼らの理解者たちは、むしろ冷静さを失った老人、そして彼らに影響を受けたメディアの犠牲者との和解を演出するような手法を用いるべきだ。

まずは先に歩み寄れ。敵はその外側にいる。