オンリーワン否定論の本音

少し前に流行した「下流社会」という教養の欠片もないネタによると、下流にいる若者たちはオンリーワン(自分にしかできない何か)を志向する傾向があるという。オンリーワンとは、分かりやすく言えば専門家ということである。もっと平たく言えば「手に職」と表現しも良い。さて、こういった精神傾向は経済動向と照らし合わせて間違っていると言えるだろうか。いや間違っているどころか、むしろ正解に限りなく近いと言っても良いのだ。

アメリカ型の社会構造に近付く日本

既に日本の社会経済はアメリカ型になったと言っても良いだろう。そこで人材の観点からアメリカ型社会経済を覗いてみると、どんな職業の類型が考えられるだろうか。

まずは経営者だ。彼らは社内での熾烈な競争に勝ち残るか、あるいは大きなリスクを背負って企業することでアメリカ社会の頂点に立つ。次は専門家だ。例えば弁護士や医者、学者、芸能人もその範疇に入るだろう。彼らは基本的に「人に使われること」が前提の職業だが、独立できるという点で単なる労働者とは異なる。三番目に来るのが労働者だ。労働者は「人に使われること」が前提の上、その立場が限りなく弱い。出世を目指さない一般的なサラリーマンはこの範疇に含まれてしまう。それは将来の日本社会でも同様だろう。

そして労働者の成れの果てが「働く貧民(Working Poors)」と呼ばれる者たちだ。彼らの生活は毎日が綱渡りであり、少しでも気を緩めれば社会の底辺、無宿人や物乞いの類にまで堕ちる。一度堕ちれば二度と這い上がれない奈落の底だ。

目指すべきは専門家

アメリカ社会の頂点を占有する経営者たちは、基本的に優れた学歴や家柄、才能、幸運といった要素によって他の人々とは根本的に異質である。故に並の人間が目指すべき道ではない。目指す必要もない。

しかし、専門家はどうだろう。確かに専門家になるのは非常に厳しい。弛まぬ努力と労力が要求される。だが、逆に言えば努力すれば専門家にはなれるのだ。確かに一言で専門家といっても、スポーツ選手からプログラマーまで難易度の高低にも随分幅がある。全ての人間が望む通りの専門家になれるというわけではない。しかし、自分の適性にあった道を選び、適切な努力を怠らなければ、何らかの専門家にはなれる。その可能性は十分にある。経営者を目指すことに比べれば、全く現実的な道なのだ。

社会階層を縦線グラフにしたとき、その中央部分より下方にいる若者たち。つまり、「下流社会」の若者たち。彼らは社会の頂点を目指すべきだろうか。いや、確かに目指すのは悪くない。しかし、圧倒的に不利な立場にいる若者たちが一代にして一気呵成に社会の頂点へ登れるほど、日本社会は易しい「梯子」ではない。そんなことは誰でも分かっている。

下流」の若者たちは下流にいるからこそ、その「少し上」を夢見るのだ。使い捨ての労働者から独立独歩の専門家へ。目指す道によって難易度は大きく異なるが、その道は決して間違ってはいない。社会のエリートたちと同じ道を歩もうと夢想するより、ずっと健全な生き方なのだ。

つまり、下流社会の若者たちはオンリーワンを目指すべきなのである。というより、それしか社会階層を這い上がる方法がない。オンリーワンを目指したがる若者はまだ大丈夫。まだ下流社会の魔手に足を絡め取られてはいない。頭一つ分くらいは上を目指している。だからオンリーワンを目指す。それで良いのだ。

下流」の若者たちを襲う悪意の罠 - 下流社会

上に述べたようなことは、社会階層を論じた専門書でも斜め読みすれば苦もなく理解できることである。それこそ社会の縦線グラフにおいて中央より上の層にいる(と信じている)人々ならば常識的に知ってなければならない知識だ。下流の若者を見下ろせる場所にいる人ならば、ブルデゥの文化資本論を知らないとは言わせない。そう、下流社会を批判する知識人たちは、オンリーワンを目指す以外に「下流」の若者たちが階層を上昇移動する方法がないことを知っている。知っているのに知らないふりをする。知らないふりをしてオンリーワンを否定しているのだ。

では何故、下流社会論ではオンリーワンを目指す若者を嫌悪するのか。答えは単純だ。彼らに梯子を昇られては困る人々がいるからである。

もはや日本は、戦後のように社会全体が豊かになるような経済構造ではない。ホッブズが論じる「万人の万人による闘争」のごとき血で血を洗う椅子取りゲーム、ゼロサムな社会である。まさにアメリカだ。故に、誰かが階層を這い上がれば、誰かが階層から足を踏み外す。では、ここで「下流」の若者たちがこぞって階層を登ろうとしたらどうなるだろう。全ての若者が梯子を昇り切れるとは到底思えないが、その中には一歩一歩確実に遠い空に近付く者がいるだろう。そのとき、下流を見下ろすだけしか能がないバカはどうなるだろうか。推して知るべし。

結論は非常に単純だ。「下流社会論」は悪質なプロパガンダであり、若者の健全な欲求を否定する社会の悪意である。日本が健全であって欲しいと望む者ならば、「下流」の若者に降りかかる悪意を払い除けなければならない。上を目指す若者は必死で梯子に手をかけている。その手を無慈悲に踏み付ける権利が、誰にあるのだろうか。

下流社会」という悪意の罠に気付かないふりをするのも良い。積極的に悪用するのも良いだろう。但し、その態度は結果として、社会の上澄みに居座る無能な豚どもの片棒を担ぐことになる。豚の餌で満足ならば、そう肝に銘じよ。きっと美味しく食べてもらえるだろうから。