二者を分けるアクリルの壁 - 「第四回 絵心」を読んで

Google の導きにより、とある高校生の日記に偶然に辿りつきました。そこで書かれていた彼(あるいは彼女)の思索に心奪われ、思わず長々と感想を述べたくなってしまいました。が、コメント欄に長文を掲載するのは気がとがめます。そこで珍しくトラックバック機能を利用してみました。ついでに、今回は珍しく「ですます調」を採用してみました。ですます。

絵心は何を表わしているのか

「第四回 絵心」の核心は、実は 「絵心」がある人による無い人に対する素朴な印象論だったりするのかもしれません。どんなことであれ、「ある人」には「ない人」の考え方が感覚的には出来ないものです。逆もまた真なりです。非難しているわけではありません。むしろ高校生でこれだけ深遠な思索ができるというのは素晴らしいことです。

さて、「絵心」というのは、絵画に対する適性を表わす抽象的な言葉です。何故、「絵心」という言葉があるのでしょうか。所謂、「絵心」がない人は幾ら頑張って描いても上手くならないと言われます。つまり、「絵心」がない人物は、どんなに努力しても「絵心」ある人の水準には近づけません。その抽象的な「上手くなる人」と「ならない人」の壁。これを私たちは「絵心」と呼んでいます。

何故、「絵心」がないと絵が上手くならないのでしょうか。あるいは私たちが「絵心」と直感的に認めているものは何なのでしょうか。それは3つあります。逆を言えば、これらの要素をひとまとめにして表わした言葉が「絵心」と言われているようです。

絵心とは何か(1)身体能力

第一に、脳の空間認識や色彩感覚の問題です。人が見ている目の前の映像は、良く知られている通り、一人ひとり異なります。また物体の形状や色彩に関する観察力や記憶の優劣というのも存在します。極端な例では、白黒以外の色彩を感じない人もいます*1。身長の問題と同じです。ある意味で運命付けられてたものだと言っても良いでしょう。つまり、才能の基盤となるもの(身体能力の適性と限界)は、生まれたときから決まっています。これは多くの人々が経験的に知っていることですね。

絵心とは何か(2)興味の強さ

第二に、動機付けの問題です。上に挙げたような生まれつき身体能力がある人ならば、同じ練習量でも一般人の数倍の効率で成長することが出来ます。すると、自分の成長を目に見える形で認識できます。やりがいがあって楽しいですよね。少なくとも無意味なことをしているような感覚に襲われずに済みます。但し、ある程度成長した後の伸び悩みは別な問題ですよ。

面白いので絵を描き続ける。描き続けるので成長する。逆に、才能がない人は幾ら練習してもほんの僅かしか成長できません。目に見える結果がありません。必然的に絵を描くことが面白くなくなります。結果として絵を描かなくなってしまうのです。多くの子どもは「絵を描くこと」が好きですが、成長する段階を経て興味を失います。自分にある別な才能を開花させていくためですね。

絵心とは何か(3)努力への意欲

第三に、努力に対する態度の問題です。「絵心」がある人は、上記の通り絵を描くのが楽しいとか、絵を描くことが自分の自尊心と繋がっていることもあり、絵に関しては努力することを普通は苦痛だと感じません。但し、成長の伸び悩みや停滞期に際し、絵を描くことに苦痛を感じることもあるでしょう。それでも絵を描くこと自体は大切なことである、という感覚自体は失うことがないので、苦難に負けず努力を続けることが出来ます。一方、「絵心」がない人は、「美しい絵を生み出すこと」自体には関心があるかもしれませんが、そもそも「絵を描くことが大切なことだ」とは思っていません。ですから、絵を描くという過程自体には何の価値も感じていないのです。だから、努力をせずに上手くなれるならともかく、上手くなるために努力するなんてことは考えられないのです。

「絵心」を勉強に例えてみると

別の例で表現してみましょう。理論的には誰でも勉強すれば、東京大学でもヘルシンキ大学でも、チュラロンコン大学*2にだって入学できるハズです。しかし、実際はそうではありません。学問には明らかに適性があることが知られています。所謂、頭が良い悪いといった話です。また、学習に対する動機付けがなければ、勉強する気にはなれません。例えば、親に勉強するよりも農作業を手伝えと言われれば、学問に才能や関心があっても農作業を優先するでしょう*3。そして、努力の問題です。受験勉強は競争ですから、結果は勝敗という形になります。ある程度の才能がなければ何時間勉強しても才能のある人には敵いません。結果が伴わない努力を永遠に続けられるほど人間は強くありません。「シシュポスの岩」の例えです。

どこかで次のような話を聞いたことがあります。某難関大を卒業した有名な財界人の話です*4。彼は学生の頃、常々「何故、周りの人は勉強ができないのだろう」とか「努力すればできるのに」と思っていたそうです。また自分は他人がやっているのと同じくらいしか勉強していなかったが、勉強で苦しんだことは特にないと語っていました。そして、彼は当たり前のように東京大学に進学したのだそうです。

「絵心」の話は、これと似たことだと言えるでしょう。「絵心」のある人とない人は、互いが同じ場所にいると錯覚しがちです。だから、「こちら側に来れば良いのに」とか「そちら側に行きたいのに」と思ってしまいます。ですが、実際にはお互いの陣地の間には勝者に見えない、あるいは見えにくい壁があって双方の行き来を物理的に不可能にしているのです。

才能は二者を隔てる透明な壁

「ある人」には「ない人」の考え方が直感的には出来ません。「ない人」には「ある人」の考え方が直感的に出来ません。その間にまたがっているのは、お互いに認めたくない「才能」という壁です。才能がある人物にとって「才能」とは、自分の努力を認めてもらえなくなりかねない危険な言葉です。また、才能のない人にとっては、自分の努力が無駄であると認めざる得なくなる危険な言葉です。だから、お互いに存在を感じながらも壁を見えないものとして、あるいは公然の秘密としてしまうものです。

しかし、この壁が隔てる二つの空間のうち、適者の側にだけ強い上昇気流が吹いています。つまり、努力に意味があるのは、まさに才能という土台があってのことです。だから才能に自覚的である方が何も悪いことではありません。むしろ才能のない人たちに情緒的な混乱を起こさせないために重要な認識です*5

要するに、「絵心」を持っていることをもっと素直に誇りしても良いのではないでしょうか。目に見える形で自分の才能に気付けたのだとすれば、それは幸せなことだと言っても良いでしょう。いや、幸せなことです。世界中の殆どの人間は、自分の才能に気付かずに死んでいくのですから。

*1:色盲, 先天性な目の特性。

*2:それぞれ各国(日本, フィンランド, タイ)で最も難しいと言われている大学名。

*3:日本の農村では当たり前の光景です。四国や東北、その他農業が盛んな地域における学童の学力が低い理由の一つと言われています。

*4:多分、経団連関係の人だったかと。

*5:才能がない人に「努力が足りないからだ」といって更なる努力を求めるのは無駄なことです。