翻訳の理論

翻訳には理論がある。あるいは手法とか理念と言い換えても良い。所謂、職業翻訳家(翻訳者ともいう)は専門的に翻訳の理論を学んでいることが多い。だから、同業者の間で翻訳に関する理論的背景が共有されている。その文章がそのように訳されている理由を説明することができる。

一方で、大学の先生を中心とした自称「翻訳家」はどうだろう。翻訳を職業としていない翻訳家は、理論を学んでいないことが多い。だから、翻訳という作業につきまとう「質の劣化」に無関心なことが多い。それ故に逐語翻訳をする。逐語翻訳は、近い関係の言語間*1であれば別だが、一般的に最も質の悪い翻訳手法である。何故なら、言葉の意味を考えずに機械的に言葉を置き換える「作業」に過ぎないからだ*2

Photoshop といった画像編集ソフトは、画像を編集するたびに少しずつ元画像の情報量が減少していく。これは即ち質の劣化と言い換えても良い。それ故、写真家といったDTPや映像編集の専門家たちは、画像を出来るだけ劣化させずに編集する手法を熟知している。勿論、出来るだけ編集しなくて済むような写真撮影も行う。

翻訳は画像や映像の編集とほぼ同じと言って良い。故に翻訳家は、翻訳する際に必然的につきまとう「質の劣化」に対して敏感でなければならない。こういった劣化を防ぐ手法が翻訳の理論である。勿論、言語という性質上、どの理論が最善というものではない。原文の内容や読み手などを考慮して限りなく最善に近い手法を選択するのだ。

もっとも、逐語訳が最も厳密と考える立場はどうだろうか。確かに聖書でも七十人訳聖書を英語やラテン語に逐語訳したものは出回っている。しかし、こういった逐語訳というものは、原文を正確に読むための副読本に過ぎない。基本的には翻訳元の言語を理解しており、足りない部分を母語で補おうとする場合に逐語訳が用いられるのである*3。だから、逐語訳は語義を重要視せず、原語と訳語間の機械的で正確な交換によって成り立っている。つまり、逐語訳は翻訳後の文章(言語)のみで理解することが前提となっていない。この前提を解さずに逐語訳こそ厳密だと主張することは許されない。

但し、どう翻訳するのであれ、質の劣化は避けられない。それでも私たちは翻訳を介することで、原文が書かれた言語を知らずに記された英智を享受できる。それが翻訳の真価である。であるとするならば、翻訳にとって最も重要なことは次の1点に絞られる。即ち、可能な限り「質の劣化」を防ぎつつ、その上で十分に読解可能な文章を作り出すことである。

枝葉末節な言葉に捕らわれて文意の本質を見落としたり、厳密に訳そうとするあまりに日本語未満な文章を作り出すことだけは何としても避けたいものである。何より読者が枝葉末節な部分にこだわるあまり、文意を正しく組み込んだ翻訳にケチを付けるような真似だけは絶対に避けるべきである。そうでなければ、あなたの手元に残るのは、著しく質が劣化した日本語未満の翻訳だけになるだろう。

*1:ドイツ語とオランダ語、ロシア語とウクライナ語、スペイン語ポルトガル語、韓国語と日本語など。

*2:とはいえ、最低限の文法や統語論を理解していなければ出来ない作業ではある。だからといって一般的な大学講師程度の語学力で翻訳に手を出してはいけない。原文の言語を熟知しているだけでは翻訳は出来ない。キチンとした理論を学んでいるのであれば、まさに鬼に金棒というやつだが。

*3:法令文といった文章の翻訳は原則的にこの前提が採用されている。何故なら、法令はその法令が書かれた言語による解釈のみが有効とされる約束事があるからだ。