日本女性という立場

日本の女性は抑圧されている。日本女性には自由がない。枠にハマった生き方以外は肯定されない。一方で、女性たちは甘やかされている。日本という国自体が女性たちを気持ち良くするために右往左往している。日本では女性である限り、他国とは比較にならないほどの恩恵に与ることが出来る。但し、その恩恵の形は常に押し付けられたものである。

「日本女性」という立場は難しい。その立場は、まるで死ぬまで子どものままで居続けることが許されているようでもある。彼女らに責任ということはないし、責任を持つことも出来ない。男性は女性のために責任を負う。責任から逃げることも出来ない。

男性は主体性のある奴隷である。彼らには日本という社会的性別の枠組みを否定する権利がない。日本男性であるならば、従わなくてはならないのだ。しかし、彼らには責任と同時に自由が保障されている。彼らには「ニホン」という現実から逃走する手段が豊富に用意されている。

その意味で女性という立場そのものは良くも悪くもない。自由を代償に一生を楽に生きることができる。逆に言えば、一生を楽に生きられる代わりに自由がない。問題はその立場に適応できるかどうかだ。大抵の場合は適応するが、稀に不適応を起こして社会に反発する者もいる。しかし、彼女らにはその程度の自由は許されている。

自由を希求することは出来るが、実際にその自由を得ることは出来ない。何故なら、日本女性の最大の敵は日本女性だからだ。確かに「ニホン」とは一部の女性に対して酷な世界である。「ニホン」は彼女らが大人になることを許容しない。一方で「ニホン」を既得権益とする大多数の女性たちが存在する。既得権益をむさぼる側からすれば、この永遠の揺りカゴ、「ニホン」という在り方を否定する同性の存在は許されない。

かくして、日本という国において女性が大人になるためには、まるで周囲の軽蔑を受けながら男性と同じ役割を引き受けるか、あるいは海外に活路を見出すしかない。日本には大人の女性は存在しない。大人に見える彼女らは、実は既得権益にすがる永遠の少女たちと、同性から侮蔑されながら必死で男性の似姿であり続ける両性具有者に過ぎないのだ。

つまり、日本人は中途半端な性別上の抑圧と自由に人生を絡め取られている。互いの利益を最大化するように「強制」される。