存在せずに存在する世界

仏陀は何故、我々は実際に存在しているのにも関わらず、存在してないなどといったのだろうか。何故なら、存在しているという感覚自体が肉体の制約を受けた認知に過ぎないことを見抜いたからだ。確かに包丁で指を切り落とせば血が流れ、激痛が走るだろう。これは事実である。しかし、肉体を通した現実だ。私たちが見て、感じるこの世界が私たちの認識通りであるのか、あるいはそうでないか。それを理解することは、人間である限り不可能である。

この考え方は日常生活にも応用できる。何故、あなたは彼に怒りを覚えるのだろうか。それはあなたの肉体があなたに怒りを発しているからだ。彼の行いは怒りの原因そのものではない。彼は、あなたの目の前に存在せずに存在する何かである。あなたの肉体は彼の行いを解釈し、その解釈に従ってあなたを行動させようする。そのときに肉体とあなた自身を仲介するのが「怒り」という実体を持たない情動である。それは存在しないのにも関わらず、あなたが現実だと信じる世界に干渉しようとする。あたかも彼自身があなたを怒らせたかのように。