諦めの大切さ:自己欺瞞を恐れるな
torly 氏のトラックバックを読んで思い付いた電波です。受信できる人だけ試してみて。
この記事は超テキトーなメンヘル系コラム仏教徒風味だけど、決して哲学や宗教もしくは右翼やフランスとは関係ありません。こういう考え方もあるというだけだし、この考え方を受け入れないからといって不利益があるワケではありませんので。
論理力に自信がある理系学生さん寄っといで!
君の優れた論理力で一切の感情的理由付けをせずに以下の質問に答えてみてね。
質問
今、この文章を読んでいるあなたに質問します。とことん論理的に考え下さい。
具体的にいうと、一億年先くらいまでのスケールで考えてね(ハート)
あなたが生きている価値は本当にありますか。
無いとしたら何故生きているんですか。
解説
- 一億年先のスケールで考えれば、どんな英雄的もしくは歴史的活躍も塵ほどの価値もない。
- 「責任があるから生きなければならない*1」という意見は、「責任を果たすのは良いことだ」という感情的判断を含む。
- 「自分を成長させるため*2」という意見は、「自分が成長するのは良いこと」という感情的理由を含む。
(無限に続けられるので以下略)
どんな些細な感情的理由付けもなしに、それでも生きる価値があると思うなら、あなたの脳みそはB級品以下かも。だって、感情的理由のない生きる価値なんて考えられないもの。まぁ、「価値」という言葉自体に「感情的理由」が含まれているから、かなり意地悪な質問だったりするけどね。
生きる理由には、必ず感情的理由が含まれなければならない。何故なら、根本的に「生きる」という行為に価値や意味はないから。全くの空白であるが故に、その空白に個人が何らかの理由を埋め込まなければならない。
本質的には無価値で無意味が行為を価値と意味を埋め合わせ、あたかも生産的な行為であるように思い込むには、自分に対する嘘が不可欠である。上手く自分を騙しきれなくなった状態が続くと自殺衝動が起きる。何故なら、無価値で無意味な「生きる」という行為は、その無価値さには不釣合いなほど苦痛で不快あるため。